情勢リスクが高まるとき:中東における人員継続性確保の実務ガイド

中東情勢は現在も緊張が続いており、現地に従業員を抱える企業にとっては、もはや机上のリスクではなく、オペレーション上の現実となっています。対応は待ったなしです。安全配慮義務、給与支払いの継続、雇用法への対応、そして現在の人員体制が維持可能かどうかが問われています。
本ブログでは、優先すべきポイントと具体的な対応について解説します。
中東に従業員を抱える企業にとっての「安全配慮義務」とは何か
安全配慮義務は、法的義務であると同時に、実務上の責任でもあります。英国法(1974年労働安全衛生法)および米国法(1970年OSHA)では、海外勤務者を含む従業員の健康・安全・福祉を守るために、雇用主が合理的な措置を講じることが求められています。情勢リスクが高まる局面においては、「合理的な措置」とは、政府の渡航勧告を待つのではなく、現地の状況を主体的に把握し、対応することを意味します。
実務上は、主に以下の4つの領域が対象となります。
従業員の安全確保と連絡体制
影響を受ける地域にいるすべての従業員と確実に連絡が取れる体制を整備します。所在の把握、現地にいる家族の有無、緊急時の避難経路の希望なども把握しておく必要があります。
メンタルヘルスおよび心理的サポート
継続的な紛争は、現地の従業員だけでなく、家族が関係地域にいる従業員にも大きなストレスを与えます。従業員支援プログラム(EAP)の提供は、安全配慮義務の一環として重要です。
渡航勧告とビザステータスの確認
各国政府の渡航勧告は、保険適用範囲や企業の責任範囲に影響を与えるだけでなく、場合によっては従業員の滞在資格にも関わります。これらはリアルタイムで把握する必要があります。
避難計画の整備
紛争リスクのある地域に従業員がいる企業は、誰が避難判断を下すのか、どのような手順で実行するのかを明確にしておく必要があります。
情勢悪化時における給与支払いの継続をどう確保するか
これは、グローバルで給与・人事を統括する責任者やCFOがすでに直面している重要な問いです。その答えは、現地における人員体制の構造によって大きく異なります。
現地法人を通じて給与支払いを行っている場合、最大のリスクは銀行機能の混乱です。紛争の影響を受ける国では為替規制が導入される可能性があり、状況の悪化から銀行機能の停止までの猶予は非常に短いことがあります。そのため、給与継続のための対応としては、代替の支払い手段の確保、従業員の現地口座が海外送金を受け取れるかの確認、あらかじめ承認されたバックアップ用の給与支払いサイクルの準備が必要です。
一方で、EOR(Employer of Record)を利用している場合、運用面でのリスクの多くはプロバイダー側が吸収します。しかし、自社としてもその継続対応プロトコルを理解しておく必要があります。また、現地での支払いが困難になった場合に給与支払い義務がどのように扱われるかについて、契約上明確にしておくことが重要です。
クラウドが停止した場合、HR・給与システムはどうなるのか
2026年3月、イランによるドローン攻撃がUAEのAWSデータセンター2拠点とバーレーンの1拠点に直接被害を与え、複数のアベイラビリティゾーンが同時に停止しました。これにより、銀行、決済、企業向け・消費者向けサービスに広範な障害が発生し、復旧の長期化も警告されています。
HR、給与、HRISプラットフォームをこれらの地域で運用、または経由している企業にとって、これは現実的なオペレーショナルリスクとなりました。主な影響は以下の通りです。
給与処理が停止するリスク
給与システムが停止したクラウドリージョンに依存している場合、予定されている給与処理を実行できなくなります。手動でのバックアッププロセスがない企業は、代替手段を持たない状態に陥ります。
従業員データへのアクセス不能
HRIS、入社・退職手続き、各種コンプライアンス関連ドキュメントはクラウド基盤に依存しています。リージョン単位の障害により、HRチームが必要な情報にアクセスできなくなる可能性があります。
データローカライゼーション規制によるジレンマ
UAEの連邦データ保護法では、特定の業界(医療・金融など)において、従業員データや業務データの国内保管が求められます。災害復旧用のバックアップも同一リージョン内に置く必要がある場合、そのリージョン自体が物理的に被害を受けると、データの耐障害性は構造的に制限されます。セカンダリーリージョンでのバックアップが法的に許容されるかについては、専門家への確認が必要です。
保険が機能しない可能性
一般的な事業中断保険は戦争行為を免責としている場合が多く、クラウドプロバイダー側も国家レベルの攻撃に対しては不可抗力条項(フォースマジュール)を適用し、SLA責任を限定するケースがあります。戦争リスクに関する補償内容は、事前に精査しておく必要があります。
対応としては、手動で代替できないHR・給与プロセスを特定し、事前にバックアップ手順を構築することが重要です。また、クラウド構成におけるリージョン集中リスクを見直し、利用しているHR・給与システム提供者に対して、リージョン障害時の継続計画を明確に確認しておく必要があります。
中東における人員再編・撤退前に求められる法的義務とは何か
この領域こそ、企業が最もリスクを過小評価しがちなポイントです。中東の雇用法は国ごとに大きく異なり、人員再編に伴う義務も市場ごとに大きく変わります。
現地法人を保有している場合
単に事業を停止し、給与支払いを止めることはできません。多くの湾岸協力会議(GCC)諸国では、正式な法人清算手続き、規制当局への通知期間の遵守、場合によっては大規模解雇に対する政府承認が求められます。また、退職時の法定給付であるエンド・オブ・サービス・グラチュイティ(EOSG)は法的義務であり、撤退前に精算する必要があります。
EOR(Employer of Record)を利用している場合
撤退時の対応は、EORとの契約内容と現地の労働法上の最低基準の双方に基づいて決まります。再編の意思決定を行う前に、自社が負う可能性のある責任範囲を正確に把握することが重要です。
NRP(Non-Resident Payroll)という選択肢
一部の国では、NRP(非居住者給与)への移行により、現地でのリスクを一定程度抑えながら構造的な判断を行うことが可能です。ただし、税務上の居住性や契約上の義務を適切に管理することが前提となります。
緊急チェックリスト:人事・財務責任者が優先すべき6つの対応
従業員の安全確保
・影響地域にいる全従業員の最新の所在情報を把握している
・緊急連絡先が整備され、実際に連絡が取れる状態にある
・各国ごとに従業員の安全を統括する責任者が明確になっている
・過去30日以内に政府の渡航勧告を確認している
給与および福利厚生
・給与プロバイダーの事業継続計画(BCP)を確認している
・現地銀行が機能しない場合の代替支払い手段を特定している
・エンド・オブ・サービス・グラチュイティ(EOSG)の残高を算出・管理している
・従業員が一時的に移動した場合でも福利厚生が有効か確認している
法務・コンプライアンス
・現地法に基づく最低通知期間および解雇義務を確認している
・雇用契約における不可抗力条項を見直している
・現在の人員体制に関するリスクについて法務アドバイザーと共有している
法人またはEORに関する判断
・人員削減や事業縮小に必要な法的プロセスを把握している
・EORプロバイダーの緊急時対応および撤退プロトコルを確認している
コミュニケーション
・現地の従業員が緊急時の連絡先を把握している
・経営陣が会社としての方針と支援内容を明確に伝えている
ITおよびクラウドシステムの継続性
・クラウドや給与システムのリージョン依存関係を把握している(中東リージョン経由の有無を含む)
・手動による給与バックアッププロセスを文書化し、テストしている
・データローカライゼーション要件と災害復旧構成の整合性を確認している(セカンダリーリージョンでのバックアップの適法性を含む)
・事業中断保険および戦争リスク補償の内容を確認している(多くの標準契約では戦争行為は免責)
・クラウドおよび給与プロバイダーの不可抗力条項やSLAを確認し、インフラが物理的に損傷した場合の対応範囲を理解している
再編か移転か:選択肢を正しく理解する
すべての情勢悪化が撤退を意味するわけではありません。しかし状況を評価した結果、現地でのリスクを抑える判断が適切となる場合もあります。
現地にとどまり、状況を注視する
カタール、サウジアラビア、UAEなど一部の湾岸諸国では、紛争地域とはリスクの性質が大きく異なる場合があります。短期的には事業継続を優先しつつ、モニタリングとコンティンジェンシープランを強化する判断が合理的なケースもあります。
地域内での移転
ギリシャをはじめとする欧州の一部の国では、影響を受けた地域から多くの人材を受け入れています。従業員を地域内の拠点へ移すことで、人材を維持しながら直接的なリスクを低減することが可能です。
EORを活用した一時的対応
近隣国でEOR(Employer of Record)を活用することで、構造的な意思決定を進める間も、オペレーションを継続することができます。
全面的な再編
撤退が不可避な場合、対応の順序が重要です。給与支払い義務を履行し、エンド・オブ・サービス・グラチュイティ(EOSG)を適切に算出・支払い、現地の規制要件に従って法人の清算手続きを進める必要があります。
よくある質問
従業員の勤務地周辺で紛争が激化した場合、企業の法的義務は何ですか?
多くの国の労働法において、企業には安全配慮義務があり、従業員の安全を守るために合理的な措置を講じる必要があります。これには、リスクの評価、明確なコミュニケーション、必要な支援の提供、状況に応じた配置転換や避難の実施が含まれます。
紛争によって現地での事業運営ができない場合、給与支払いを停止できますか?
原則としてできません。事業運営の停止を理由に給与支払い義務が消滅することは通常ありません。雇用契約における不可抗力条項も、多くの法域では限定的に解釈されます。給与停止などの判断を行う前に、必ず法的助言を受ける必要があります。
中東における現地法人の清算にはどの程度の時間がかかりますか?
国によって大きく異なります。UAEのフリーゾーン法人であれば数週間で完了する場合もありますが、本土法人の場合は規制当局の承認を含め数か月を要するのが一般的です。サウジアラビアでは複数の政府機関の承認を伴う正式な清算プロセスが必要です。いずれの場合も、着手前に現地の専門家へ相談することが重要です。
危機時にHRや給与システムが停止した場合、どう対応すべきですか?
事前に、手動で代替できないHR・給与プロセスを特定し、緊急時に対応可能なバックアップ手順(例:エクスポートデータを用いた簡易給与処理)を整備しておくことが重要です。また、利用しているシステム提供者に対し、リージョン障害や物理的インフラ被害を含む継続計画を確認しておく必要があります。さらに、データローカライゼーション規制によりセカンダリーリージョンへのバックアップが制限される可能性があるため、その対応についても法的助言を得るべきです。
中東に従業員がいる場合、準備がすべてを左右します。ぜひお気軽にGoGlobalにご相談ください。給与体制の確保、安全配慮義務への対応、そして環境変化の中でも事業を継続できる体制構築を支援します。
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