資産カーブアウトにおける見えざる分岐点:準備は万全でも、実行で立ち止まる現実

多くのM&A取引が失敗するのは、意欲が足りないからではありません。問題は、真に重要なポイントが見落とされていることにあります。
Harvard Business Reviewによる調査によれば、M&Aの70~90%が期待された価値を実現できていないという結果が報告されています。一方で、規制当局による承認プロセスは、かつてよりも長期化・複雑化しており、取引の進行スピードや完了後の統合プロセスに対するリスクをさらに高めています。
スピードを重視するあまり、徹底した確認作業が後回しになることは少なくありません。バリュエーション(企業価値の算定)はあくまで一側面にすぎず、もう一方の「オペレーション(業務運営)」こそが、多くの場合、問題の発生源となります。
私たちはこれまでも、資産カーブアウトにおける人事部門の重要性や、海外雇用代行サービス(Employer of Record)やNRP(非居住者向け給与支払スキーム)といった暫定的なソリューションが、移行期の人材維持において有効であることを取り上げてきました。しかし、特にクロスボーダー取引においては、オペレーション面の準備不足こそが真のボトルネックとなりがちです。現地法人がない、銀行口座が開設されていない、従業員を合法的に雇用できない、請求書を発行できない—こうした課題は決して特殊なケースではなく、高いリスクを伴う共通の問題です。
本ブログでは、これまで見落とされがちだったオペレーション上のリスクに光を当て、クロージング後のスムーズな移行に向けた実践的な対策をご紹介します。
取引が崩れ始めるとき
クロスボーダーの資産カーブアウトでは、従業員・知的財産・オペレーションが親会社から切り離されます。取引そのものは迅速に進行する一方で、インフラの整備は後手に回りがちです。買収側は、対象資産がすでに独立運営できる状態だと想定してしまうことが多いものの、実際には現地法人、ライセンス、福利厚生、ガバナンス体制が未整備、もしくは全く存在しないケースも少なくありません。
このギャップが、高コストかつ回避可能な問題を引き起こします。
リスク領域 | よくある落とし穴 | 生じる影響 |
---|---|---|
人事・タレント | 従業員の引き留めや現地雇用の計画が不明確 | 離職、雇用区分の誤認リスク |
現地法人の準備状況 | 法人は設立済みだが、実質的に稼働していない | 雇用・請求・支払いができない |
福利厚生・オンボーディング | 制度の見直し・導入・引継ぎに十分な時間が確保されていない | 保険等の空白期間、従業員の不満 |
銀行・支払業務 | 現地銀行口座の開設が遅延 | 給与支払・売掛/買掛処理ができない |
ガバナンス | 取締役の不在、または署名権限の不明確さ | クロージング後の手続きに遅れが生じる |
法人設立と運営準備のギャップ
現地法人を設立すれば準備完了、そう考える買収企業は少なくありません。しかし、「法人があること」と「ビジネスが稼働できること」は別物です。
実際の運営には、以下のようなインフラの整備が不可欠です。
- 銀行口座の開設:現地銀行では、対面での本人確認や書類審査が求められ、手続きに時間を要します。口座がなければ、給与の支払も不可能です。
- 取締役の就任手続き:多くの国では、現地居住の取締役が必要とされ、その選任・登録には手間と時間がかかります。
- 署名権限の設定:正式な署名者が明確でなければ、契約書の発行や福利厚生の登録といった基本的な業務すら滞る可能性があります。
その結果、「法人」は存在していても、実態としては“動かない箱”になってしまうのです。
福利厚生の設計は急いではいけない
カーブアウトのプロセスで従業員を移管する際、福利厚生の整備は法務・財務の後回しにされがちです。しかし、それは大きな見落としです。
以下のような重要なポイントが抜け落ちることが少なくありません。
- 市場水準や競合他社のプランとの十分な比較検討の時間がない
- 既存の制度と現地で提供可能なプランとのギャップが見落とされる
- 現地の保険会社やサービス提供者との契約交渉の時間が不足
- 従業員との適切なコミュニケーション計画がないまま移行される
このような準備不足の結果、従業員は保障の空白期間や条件の悪いプランに直面することになり、不満や不安を抱え、離職リスクが高まります。
そして、優秀な人材の離脱は、そのまま取引の価値毀損に直結するのです。
法人口座の開設遅延を甘く見てはいけない
どの国・地域においても、現地法人の銀行口座開設はスムーズに進むとは限りません。特に、KYC(顧客確認)要件が厳しく、提出書類の審査が厳格な国では、開設に数週間〜数か月を要することもあります。
遅延の主な要因:
- 公的な登記書類の認証取得待ち
- 取締役未任命、または署名権限者の未設定
- ハイリスク国における規制当局の審査
遅延が引き起こす深刻な影響:
- 給与支払いの遅延
- 経費精算ができない
- 仕入先や外注先への支払いが滞る
雇用開始日や請求業務のタイミングと銀行口座の準備が合っていない場合、ビジネスの立ち上げそのものがストップしてしまうリスクがあります。
駐在員やクロスボーダー従業員には特別な計画が必要
カーブアウトで切り出される従業員に駐在員が含まれる場合や、クロージング後にチームメンバーを移動させる計画がある場合、対応すべき複雑な課題がさらに増えます。
想定される主な課題は以下の通りです:
- ビザの取得要件と申請期間
- 現地の給与基準や福利厚生の同等性
- 住宅手当、引越し支援、税務調整(タックス・イコライゼーション)
これらを十分に計画しないと、法令違反や移転の失敗、重要人材の流出につながる恐れがあります。
単なる移民手続きの問題にとどまらず、事業継続のリスクとして捉えるべき重要な課題です。
タイムラインのズレこそが最大のリスク
これらの問題の根底にあるのは、非現実的な取引のスケジュール設定です。
法的な法人設立は書類上で完了しても、実際に稼働可能な状態にするまでに必要な時間が過小評価されるか、まったく考慮されていないことが多くあります。その結果、初日には準備が整わず、後から慌てて対応に追われる事態を招きます。
代わりに、実務面を反映した現実的なタイムラインを策定しましょう:
- 銀行口座開設にかかる期間を見込む
- 福利厚生の調整やオンボーディングに必要な時間を確保する
- ガバナンス体制、取締役の任命、現地での署名権限の整備を合わせる
- 海外人材の移動がある場合は、ビザ取得にかかる時間も考慮に入れる
人材の安定化からオペレーショナル・レディネスへ
最近のクロスボーダー・カーブアウト事例で、GoGlobalは法人設立が完了していない状態で契約締結を迎えながらも、わずか55日間で全従業員の移管を成功させました。
これは厳しい取引環境下での挑戦でしたが、成功の鍵は「人」を起点に置き、そこから広範な構造的リスクを浮き彫りにしたことにあります。
フェーズごとの進め方は以下の通りです:
- 1日目~15日目:海外雇用代行サービス(EOR)を活用し、法的な雇用と給与支払いの継続を実現
- 16日目~30日目:現地の法令遵守状況を確認し、福利厚生の不足や雇用書類の不備を把握
- 31日目~55日目:さらに深掘りし、ライセンス取得の遅延、銀行口座問題、ガバナンス体制の穴を発見
この段階的なアプローチは、単に人材を安定化させただけでなく、オペレーションの早期立ち上げを加速させる効果を生みました。
法人ギャップにより取引を失速させてはいけない
取引はスピーディーに進みますが、オペレーション準備が整っていなければ、どんなに完璧な法的クロージングでもビジネスはスタート地点で止まってしまいます。
本当のリスクはクロージング後に表面化します。給与支払いができない従業員、移管されないライセンス、取引ができない法人。これらは単なる遅延ではなく、現場での具体的な障壁となり、事業の勢いを削ぎ、価値を損ないます。
だからこそ、現地の専門知識が重要なのです。カーブアウトの最後の一歩は、現地の慣習を理解し、言語を話し、規制に精通し、スピーディーに対応できる人材が、適切なシステムとプロセスを備えているかにかかっています。
現地専門家がグローバルな拠点を一元管理する統合モデルなら、現場の正確な対応と中央集約的な効率性の両立が可能です。複数の法域にまたがるカーブアウトを進める企業にとって、この「ローカル実行」と「グローバル監督」の融合は、単なる利便性ではなく必須の条件です。
最高の取引とは、単に契約を結ぶだけでなく、その後の運営がスムーズに進むように設計されたものです。
クロスボーダーM&Aカーブアウトにご興味があれば、ぜひご相談ください。
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