EU賃金透明性指令への対応準備:雇用主のための実践ガイド

EU賃金透明性指令(EU Pay Transparency Directive)は、欧州における採用、報酬、賃金報告のあり方を大きく変えつつあります。しかし、見出しだけを見ると受ける印象とは異なり、EU全域で一律に適用される単一のルールが存在するわけではありません。本ブログでは、雇用主が知っておくべきポイント、現時点で適用されている内容、そして今後に向けた準備について解説します。
現在、欧州の人事・コンプライアンス担当者から最も多く寄せられている質問の一つが、「EU賃金透明性指令について、もう何か対応を始める必要があるのか?」というものです。
答えは「はい」です。ただし、その理由は多くの人が想像しているものとは少し異なります。
この指令に関する議論の多くは、すでに欧州全域で単一のルールが施行されていることを前提にしています。しかし、実際の運用はそうではありません。
EU賃金透明性指令は、あくまで共通の枠組みを定めるものです。その後、各EU加盟国がその枠組みを自国法へ反映し、国内法として整備します。そのため、報告要件、執行方法、適用スケジュールなどは国ごとに異なる内容となる場合があります。
複数の欧州市場で事業を展開する企業にとって、この違いは非常に重要です。
指令そのものを理解することは出発点にすぎません。企業はさらに、各国での法制化が採用プロセス、報酬制度、そして報告義務にどのような影響を与えるのかを把握する必要があります。
今後に向けた準備は重要です。しかし、本当の課題は、欧州各国で制度整備が進められている中で、どこに優先的に対応すべきかを見極めることにあります。
この記事のポイント
- EU賃金透明性指令(EU Pay Transparency Directive)は、「同一価値労働同一賃金」の実現を促進し、欧州全体における男女間の賃金格差の是正を目的としています。
- この指令は共通の枠組みを定めるものですが、具体的な制度は各EU加盟国が国内法として整備・施行します。
- 現時点で指令を国内法へ完全に移行しているEU加盟国は、イタリア、リトアニア、マルタ、スロバキアの4か国です。その他の加盟国では、現在も制度整備が進められています。
- 採用時の透明性に関する要件は、企業が最初に対応を求められる事項の一つとなる見込みです。これには、給与レンジの開示や、応募者の給与履歴に関する質問を制限するルールなどが含まれます。
- 賃金報告に関する義務は、企業規模や各国の法制度に応じて段階的に適用されます。
- コンプライアンス対応は、単に報告義務を果たすだけでは十分ではありません。報酬体系、職務体系(ジョブアーキテクチャ)、そして賃金ガバナンス全体を見直すことが求められます。
- 企業が採用している雇用形態も重要なポイントです。自社法人による直接雇用、海外雇用代行(EOR:Employer of Record)の活用、またはスタッフリース(Staff Leasing)など、雇用モデルによって適用される義務が異なる場合があります。
雇用主が今から取り組むべき5つのアクション
幸いなことに、多くの企業はゼロから対応を始める必要はありません。まず重要なのは、現在の人事・報酬制度が今後の要件とどの程度整合しているのか、そしてどこに改善すべき点があるのかを把握することです。
| アクション | 重要な理由 |
|---|---|
| 部門横断のプロジェクトチームを立ち上げる | 賃金透明性への対応は、人事だけでなく、法務、財務、経営層など複数部門の連携が必要となるためです。 |
| 現在の報酬制度を確認・評価する | 実際にどのような報酬を支払い、どのような基準で報酬を決定しているのかを把握するためです。 |
| 職務体系(ジョブアーキテクチャ)を整備する | 「同一価値労働」の判断を客観的に行うための基盤を構築するためです。 |
| 制度上の課題やギャップを事前に検証する | 報告義務が始まる前に課題を特定し、対応するためです。 |
| 管理職・採用担当者への教育を行う | 新たな要件や採用時の対応について、関係者が正しく理解できるようにするためです。 |
すでに多くの企業が、各国での法整備が進むことを見据え、報酬制度、職務体系(ジョブアーキテクチャ)、そして採用プロセスの見直しを進めています。こうした準備を早期に始めることで、今後新たな法的要件が導入された際にも、より円滑に対応できるようになります。
EU賃金透明性指令(EU Pay Transparency Directive)とは
EU賃金透明性指令(EU Pay Transparency Directive)は、2023年に採択されました。その目的は明確であり、同一の業務、または同一価値の業務に従事する男女に対して、同一賃金を実現するという原則をより強化することです。
この指令では、従業員が賃金の決定方法についてより深く理解できるよう、新たな透明性要件が導入されています。同時に、監督当局が賃金差別を把握・是正するための権限も強化されています。
大きく分けると、企業には次のような対応が求められることになります。
- 採用時における賃金情報の透明性の確保
- 応募者の給与履歴を質問することへの制限
- 従業員が賃金に関する情報へアクセスできる仕組みの整備
- 男女間の賃金格差に関する報告
- 説明できない大きな賃金格差がある場合の賃金評価(Pay Assessment)の実施
- 執行体制および救済・補償制度の強化
この指令の中心となる考え方が、「同一価値労働(Work of Equal Value)」という概念です。
その判断は、次のような客観的な基準に基づいて行われます。
- スキル
- 努力
- 責任
- 労働条件
多くの企業にとって、これは新たな課題となります。
今後のコンプライアンスでは、単に「従業員にいくら支払っているか」だけでは十分ではありません。
企業がどのような基準で職務を評価し、どのような考え方で報酬を決定しているのかを、客観的に説明できることが求められるようになります。
多くの企業が見落としがちなコンプライアンス上の課題
EU賃金透明性指令に関して最も多い誤解は、この指令によって、すでに欧州全域で統一されたルールが一律に適用されているという認識です。
しかし実際には、EU賃金透明性指令そのものが、EU域内のすべての企業に直ちに法的義務を課すわけではありません。多くの場合、各加盟国が指令を国内法として制定・施行して初めて、企業に対する具体的な義務が発生します。
すでに指令を国内法へ移行している4か国でも、その対応方法はそれぞれ異なっています。
報告要件、制度の詳細、執行方法、さらには透明性要件の適用方法にも違いが見られます。
そのため、今後その他の加盟国がすべて同じ制度を採用するとは考えにくいでしょう。
複数の欧州諸国で事業を展開する企業にとっては、このことが、多くの報道から受ける印象以上に複雑な対応を求められる要因となります。
指令の基本的な目的を理解すること自体は、それほど難しくありません。
本当の複雑さは、その共通の目的が27のEU加盟国それぞれで異なる国内法へと落とし込まれる段階で生じるのです。
各国で制度導入が進む中、企業が想定しておくべきこと
各国での制度導入には違いがありますが、法整備やガイドラインにはいくつか共通した傾向が見られます。
採用時における透明性の向上
最も大きな変化の一つは、採用プロセスに関するものです。
その目的は明確です。求職者が採用プロセスに多くの時間を費やす前に、その職務で想定される給与レンジを把握できるようにすることです。
また、この指令では、企業が応募者に過去の給与履歴を尋ねることも禁止しています。これにより、これまでの給与額ではなく、職務そのものの価値に基づいて報酬を決定することが促されます。
これまでオファー金額を決定する際に応募者の過去の給与を重視してきた企業では、採用プロセスを大きく見直す必要があるでしょう。
従業員による賃金情報へのアクセス拡大
従業員は、自身の報酬がどのような基準で決定されているのかについて、より多くの情報を得る権利を持つようになります。
これには、自身の給与に関する情報だけでなく、一定の条件のもとで、同一の業務または同一価値の業務に従事する従業員の平均賃金に関する情報へアクセスする権利も含まれます。
企業にとっては、こうした透明性の向上により、自社の報酬制度が客観的な説明に耐えられるものであることがこれまで以上に重要になります。
これまで慣例的に運用されてきた報酬制度は、その妥当性を説明することが難しくなる可能性があります。
一定規模以上の企業に対する報告義務
賃金報告義務は、企業の従業員数に応じて段階的に適用される予定です。
現在想定されている基準は次のとおりです。
| 従業員数 | 報告義務(予定) |
|---|---|
| 250名以上 | 2027年6月から毎年報告 |
| 150~249名 | 2027年6月から3年ごとに報告 |
| 100~149名 | 2031年6月から3年ごとに報告 |
| 100名未満 | 各EU加盟国の判断により決定 |
これらの基準は、制度全体を理解する上での目安となります。
ただし、実際にどのような義務が適用されるかは、最終的には各EU加盟国が制定する国内法によって決まる点に留意する必要があります。
雇用形態によって求められる対応は異なる
賃金透明性への対応を考えるうえで、最も重要な要素の一つが雇用形態です。
自社の法人を通じて従業員を雇用している企業と、それ以外の雇用スキームを利用している企業とでは、求められる義務や責任は大きく異なります。
まずは、自社にどのような責任があるのかを正しく理解することが、コンプライアンス体制を整備する第一歩となります。
自社法人を通じて従業員を雇用している企業
自社の法人を通じて従業員を雇用している企業は、最も明確なコンプライアンス上の責任を負うことになります。
各国で国内法が施行されると、企業には主に次のような責任が求められることが想定されます。
- 採用時における賃金情報の透明性の確保
- 報酬制度のガバナンス
- 職務体系(ジョブアーキテクチャ)の整備と職務区分の管理
- 賃金に関する報告
- 従業員からの情報開示請求への対応
- 従業員代表との協議・対応
- 必要に応じた賃金評価の実施
こうした企業では、報告期限が近づいてから準備を始めるのではなく、早い段階から対応を進めることが重要です。
実際には、最も大きな負担となるのは報告書の作成そのものではありません。
その報告を支えるための報酬制度や、職務評価の仕組みを整備することこそが、最も重要な取り組みとなります。
EORを利用している企業
海外雇用代行(EOR:Employer of Record)を利用している企業の中には、「EORを利用していれば、賃金透明性指令への対応はすべてEORが担う」と考えているケースがあります。
しかし、実際にはそれほど単純ではありません。
EORは法的な雇用主であるため、各国法の下では一定の法的義務を負う可能性があります。
一方で、指令の対象となる多くの実務上の判断は、依然としてクライアント企業が行っています。
例えば、
- 報酬水準を決定するのは通常クライアント企業であること
- 職務内容を定義するのはクライアント企業であること
- キャリアパスや昇進制度を設計するのはクライアント企業であること
- 採用プロセスや求人情報の内容を管理するのも、多くの場合クライアント企業であること
などが挙げられます。
そのため、賃金透明性への対応は、EORまたはクライアント企業のどちらか一方だけで完結できるものではありません。
実効性のあるコンプライアンスを実現するためには、EORとクライアント企業が連携して対応することが不可欠です。
さらに、多くのEU加盟国では、EORを利用する企業に対して国内法がどのように適用されるかについて、まだ最終的な制度設計が完了していません。
そのため、この分野は今後の法整備の動向を継続的に確認していく必要があります。
スタッフリースを利用している企業
スタッフリースを利用している企業では、さらに複雑な対応が求められる場合があります。
EORと同様に、各国法における「雇用主」の定義によっては、複数の当事者が責任を分担することになります。
また、EU各国で制度導入の状況はまだ統一されていないため、スタッフリースを利用している企業は、すべての国で同じルールが適用されると考えるのではなく、国ごとに適用される義務を個別に確認・評価することが重要です。
企業が対応を迫られる可能性が高いポイント
EU賃金透明性指令の目的自体は比較的明確です。
しかし、その目的を複数の国、複数の組織、そしてさまざまな雇用形態に対応できる実務プロセスへ落とし込むことは容易ではありません。
ここでは、欧州各国で制度導入が進む中で、私たちが特に重要だと考えているポイントをご紹介します。
EU各国で異なる制度導入への対応
多国籍企業にとって、最大の課題となるのは一貫性の確保です。
EU賃金透明性指令は、EU全体として共通の目標を示しています。しかし、その具体的な制度設計や運用方法は、各加盟国が独自に定めます。
そのため、ある国で要件を満たす報告体制が、別の国でもそのまま通用するとは限りません。
この違いに対応するため、人事部門、法務部門、コンプライアンス部門は、複数の国で従業員を管理する中で、より多くの調整業務を担うことになります。
「同一価値労働」をどのように判断するか
「同一価値労働(Work of Equal Value)」という考え方自体は、一見すると分かりやすいものです。
しかし、これを数百人、あるいは数千人規模の従業員に適用することは、はるかに複雑です。
企業は、職務ごとの責任範囲、求められるスキル、労働条件などの違いを考慮しながら、客観的かつ説明可能な職務評価の仕組みを構築する必要があります。
複数国にまたがる報告業務の複雑化
私たちの経験では、実際に報告書を作成すること自体が最も難しいわけではありません。
むしろ、多くの企業が苦労するのは、複数の国に分散している報酬データを収集し、検証し、統一した形へ整理するプロセスです。
報酬に関する情報は、異なるシステム、事業部門、さらには国ごとに管理されていることが少なくありません。
一貫性のある報告体制を構築するためには、適切なガバナンス、信頼できるデータ、そして責任範囲を明確に定めた運用体制が不可欠です。
職務体系(ジョブアーキテクチャ)の整備不足というリスク
制度導入の準備を進める中で、多くの企業が課題として認識する可能性が高いのが、職務体系(ジョブアーキテクチャ)の整備不足です。
職務内容が明確に定義されていなかったり、職種区分が一貫していなかったりすると、「同一価値労働同一賃金」を客観的に示すことは非常に難しくなります。
多くの場合、賃金透明性制度そのものが問題を生み出すわけではありません。
これまで見えにくかった制度上のばらつきや不整合を、より明確に浮き彫りにすることになるのです。
FAQ:EU賃金透明性指令(EU Pay Transparency Directive)
EU賃金透明性指令は、すでにすべてのEU加盟国で施行されていますか?
いいえ。
EU賃金透明性指令は、EU加盟国が国内法へ反映すべき共通の枠組みを定めたものです。国内法への移行期限は過ぎていますが、実際の制度導入状況は加盟国によって異なります。
そのため、企業に対する具体的な義務は、通常、指令そのものではなく、各加盟国で制定された国内法に基づいて発生します。
すでに指令を国内法へ移行している国はどこですか?
本ブログ掲載時点では、イタリア、リトアニア、マルタ、スロバキアの4か国が、EU賃金透明性指令を国内法へ完全に移行しています。
その他のEU加盟国では、それぞれ法制化の手続きが進められており、今後も国ごとに要件が異なる状況が続くと考えられます。
従業員100名未満の企業は、報告義務の対象外ですか?
必ずしもそうではありません。
義務的な賃金報告は、原則として従業員100名以上の企業を対象としています。
ただし、各EU加盟国には、100名未満の企業に対して追加の要件を設ける裁量があります。
そのため、対象外の企業であっても、自国の法制度の動向を継続的に確認し、将来的な透明性要件への対応を進めておくことが重要です。
この指令は男女間の賃金格差だけを対象としているのですか?
いいえ。
男女間の賃金格差の是正は重要な目的の一つですが、それだけではありません。
この指令では、採用時における賃金情報の透明性、従業員による賃金情報へのアクセス、そして企業が「同一価値労働」をどのように評価するかについても対象としています。
そのため、多くの企業では、報酬制度や職務体系(ジョブアーキテクチャ)を改めて見直すことが求められるでしょう。
海外雇用代行(EOR)を利用していれば、賃金透明性への対応は不要ですか?
いいえ。
EORは法的な雇用主として一定の責任を負う場合がありますが、報酬制度の設計、採用プロセス、キャリアパスの設計など、指令の対象となる多くの実務上の判断はクライアント企業が担っています。
そのため、コンプライアンス対応は、EORとクライアント企業が連携して進めることが重要になります。
自国でまだEU賃金透明性指令が施行されていない場合、企業は何をすべきですか?
今から準備を始めることをおすすめします。
現在の報酬制度を見直し、職務体系(ジョブアーキテクチャ)を評価し、採用時における賃金情報の開示方法を確認しておくことが重要です。
こうした取り組みは、EU賃金透明性指令が目指す方向性にも合致しており、各国で制度が施行された際のコンプライアンスリスクの低減にもつながります。
賃金透明性は、単なるコンプライアンスの課題ではなく、事業運営上の課題
賃金透明性への対応というと、多くの企業は報告義務に注目しがちです。
しかし、私たちが実際に目にしているのは、多くの企業が報告書の作成と同じくらいの時間と労力をかけて、報酬制度、職務体系(ジョブアーキテクチャ)、そしてそれらを支える社内プロセスの整備を進めているということです。
その理由は、透明性の向上が報告義務だけに影響するものではないからです。
より透明性の高い環境では、報酬の決定方法、職務体系、採用プロセスなど、あらゆる人事制度がこれまで以上に厳しく見られるようになります。
それらを適切に運用するための仕組みやガバナンスを整備するには、十分な時間が必要です。
幸いなことに、企業にはまだ準備を進める時間があります。
EU各国での制度導入には依然として差がありますが、大きな方向性はすでに明確です。
賃金の透明性に対する社会的な期待は高まり続けています。従業員は報酬についてより多くの説明を求めるようになり、監督当局もこれまで以上に厳しく企業の対応を注視しています。
早い段階から準備を進める企業は、コンプライアンスへの対応を有利に進められるだけではありません。
より強固な報酬制度、明確なガバナンス、そして各国の法制度が整備される中でも柔軟に対応できる体制を構築することができます。
すべての加盟国で制度が確定するのを待ってから対応を始めることは、不必要なリスクを抱えることにつながります。
今から適切な基盤づくりを進める企業ほど、今後各国で新たな要件が導入されても、よりスムーズに対応できるでしょう。
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